(記事作成2022.8.6更新2022.8.10)
祖父の訃報を受けたとき、正直、ぼくはとても冷静で淡々としていた。
周りの家族や親類は慌てふためいて涙を流しているなか、自分はとても浮いた存在だったのは間違いない。
なぜぼくは、他の人のように泣いたり動揺することがなかったのか?
それには2つの理由があるので『死』に対するぼくの考えかたを綴っていこうと思う。
人の死に接してもそこまで悲しまない2つの理由
まず、祖父との関係性はとても良好で、人間的・知性的にもとても尊敬していた。
小さいころから囲碁やテニスで遊んでもらったり予科練での体験を聞かせてくれたりと、近所の住人や一族みんなから愛されていた。
なのに、なぜぼくは訃報を受けても動揺しなかったのか・・・?
生前に、精一杯の思い出を作り感謝を伝えていた
物心ついた小学生のころから社会人になるまで祖父と会うときは、一分一秒もムダにしないくらい全力で思い出を紡いできた。
一緒に買い物をしたり、畑でナスを収穫したり、お酒を酌み交わしたり・・・ここでは書ききれないくらい沢山の時間を過ごすことができた。
特に
「孫が運転する車に乗りてーなー」
という祖父の20年以上も抱いていた希望を叶えることができた瞬間は、お互いに一生忘れることができない最高の思い出だ。
会うたびに感謝の気持ちを伝えていた
人はいつ死ぬか予測がつかない。
だからこそ、感謝の念や思っていることは互いが生きているうちに精一杯に伝えていかないといけないと思う。
祖父の夢や願っていたことをどうしても叶えるべく、自分ができる範囲でたくさんの時間を共有しようと心がけていた。
もし「また来年も会えるだろう」と驕っていたら、訃報を聞いた瞬間とても動揺し後悔していただろう。
『別れ』を常に意識する
祖父に限らずだが、ヒト・モノ・動物には常日頃から別れのときを意識して付き合っている。
「この人と会えるのは、今日が最後になるかもしれない・・・」
と、常々感じているので感謝と情をもち接し気持ちを伝え忘れたことがない。
こういう考え方だから、もしもの別れのとき他者より後悔の念が薄く湿っぽくならないのだろうな。
相手が望んでいることに応えようと努力する。相手への感謝の気持ちを忘れず、それをちゃんと恥ずかしがらず伝える。
これをモットーにしているから、いざ別れのときになっても気持ちよく送り出せたのだと思う。
『死』に対してネガティブなイメージをもっていない
『死』の話題はどうも避けられがちだし、暗くネガティブな印象をもっている人は多いと思う。
しかし、ぼくは『死』に対してはむしろポジティブなイメージを抱いている。
なぜなら、命が尽きたら「次の世界で生きる」という輪廻転生のサイクルにより、亡くなった生き物はみんな他の何かに生まれ変わると思っているからだ。
また、故人の肉体はこの世から離別しても精神では繋がっていると考えれば、辛い気持ちもいくらかは和らぐだろう。
死んだら終わりではなく、そこからまた新しい何かが始まっていくと考えれば『死』をネガティブにとらえたり忌避することはない。
いずれどこかで巡り合うさ
生き物は100%死ぬ。
しかし、輪廻のサイクルにより故人はどこかの世界に生まれ変わり、形を変えて何かしらの方法で自分に接触してくると思っている。
たとえば、
- 散歩中にいきなり足に飛びついてきたカエル
- 燃えるように真っ赤な夕景
など、偶然出会ったもの・事象に
「お、会いに来てくれたのかな??」
なんて、小さな出会いについつい故人を重ねてしまうのだ。
このように、ちょっとした出来事も輪廻のおかげだと思っているので、実体がなくとも精神的な繋がりは維持している。
ただし、自分の子どもは・・・
もし、自分の子どもを亡くしてしまったらと想像すると胸が苦しくなる。
正直、今回綴ったマインドではいられないかもしれない・・・
この心情については体験したことがないので、この件に関してはこれ以上書くことはできない。。。
最後に
- また会えるだろう
- 次に会ったときに伝えればいいや
- 好きだなんて毎日は言わなくていいでしょ
という驕りをもっていると、相手がいなくなってしまったときに確実に後悔する。
生きているうちにたくさんの思い出を一緒に作り、伝えたいことは目一杯にちゃんと伝えよう。
別れのときは必ず訪れるので、自分ができる最大の愛情表現で接していくことはとても大切だと思う。
今回綴ったのはぼくの死生観や対人関係で大事にしていることだ。
これを機に人との接し方を見つめ直してみてはいかがだろうか。
最後までご覧いただきありがとうございました。